音楽と孤独
音楽と向き合うということは、孤独な作業だと常々思う。
よく人に言われる。
”ピアニストって、可愛いドレス着られて、好きな音楽弾いてるだけで仕事できるなんていいね。勉強しなくてもいいし、ただピアノ弾いてるだけでいいんでしょ?”
確かに舞台上では、華やかに着飾り、会場からの何百、何千との視線を集め、拍手や歓声でチヤホヤされる。一見楽しそうで、毎日がパーティーのように見えるかもしれない。
だけれど、音楽家というものはそんな華やかな毎日でただ楽しんで生きている訳ではない。
実をいうと、いたって”地味”である。
ジミーズ代表選手権があったら、音楽家がトップの職種に選ばれても過言ではない。
小さい頃から楽器のレッスンに通い、何千時間、何万時間との日々の練習の積み重ねによって演奏法を学ぶ。どんな天才だって、たった一日や数週間で巧みに指を動かし、難曲をスラスラ弾けるようにはならない。そして、日々の練習はいくら大成した音楽家であっても音楽をやめるまではずっとやり続けていかなくてはいけない作業である。
音楽を学ぶ作業はとても孤独だ。
ただ一人、楽器と楽譜と向き合っての作業。
頭脳、耳、目、腕、体、心、全てを巧みに使い、一つの音楽作品を作り上げる。
楽譜一曲勉強するにしたって、その当時の作曲家の心情、調や和声進行の解析、文化・歴史的背景、その作品前後の作品と比較、作曲者人物像や性格、作品は誰に向けられて書いたものか・・・色んな要素を研究し、作曲家が一体どのようにしてこの曲を書いたのか、どんな音を出したいのか、そんなことを想像する。
例えば、ベートーヴェンのピアノソナタ第30番 作品109をとってみよう。
この曲が作曲された年は、1820年ー1821年頃と推定されている。
ベートーヴェンの晩年期は、愛に飢えていた。なんと、彼は失恋を繰り返し、42歳の時までに3人のプロポーズを断れたのだ。
3度目の正直・・・想像していただきたい、勇気を振り絞って婚約の言葉を愛する女性にかけるものの全て無残に断られるその感情を。ベートーヴェンは、相当な非モテ男だったのだろう。
そして同時期に、「カール問題」というのが発生。
これは、9歳の甥カールを母親から引き離し、ベートーヴェンが養育権を独占しようと試みたもの。5年の裁判を得て、1820年カールの養育権を無事取得。そして、この年に第30番が書かれた。カールは、伯父ベートーヴェンにとっての生きがい、そして彼の晩年期の創作の支えであったことが読み取れる。そして、そんな背景を知ってから楽譜に向かっていざ音を奏でると、第1楽章の冒頭はとても優美で甘く、カールの愛おしい様子を思って書かれたのかと容易に想像ができる。
ベートーヴェンの心情を完全に認知できるとは本人でないので、なんとも言えないがこのような背景を知るということは曲を演奏する上での、表現を求める上で役立つ。
結局私たち演奏家に託されたのは、彼らの音符だけ。作曲家本人に話を聞くこともできないし、手ほどきをうける訳にもいかない。練習室にこもり、音楽と真剣に向き合う。時には、たくさんの文献を読み、曲の解釈をしていく。そして彼らの素晴らしい楽曲をいかに演奏して、いかに伝えるか。その作業は、実に孤独で自分との戦いでもある。
練習だけが、孤独とはいわない。
ステージでも、いたって孤独だ。
ソリストの場合、ステージには自分しかいない。
観客にも静かにしてもらい、全員が集中して演奏者の奏でる音に耳を傾ける。
沈黙の中で、ただ一つ一つの音と向き合いながら、自分の身を音楽に投じる。
それは、同じ時間と空間を共有する芸術。
一瞬たりとも同じものはできない。
どんなに素晴らしい演奏ができた日だって、またそれがこれからもできるとは限らない。
でもそんな孤独の中だからこそ、美しさというものが際立つのだと思う。
世界中の美しい景色、和の陶器、絵画・・・唯一無二でそこにしかないもの。
だからこそ、美しい。
孤独だから、美しい。
そして、音楽を生涯通じて勉強することが私にとっての何よりの生きがいである。
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