休学・・・不可能を可能へ

今日とある新聞記者の方から、

”今年の一年間の休学は、みさきさんにとってどういったものでしたか?”


と質問された。


今振り返って思うと、今年の一年はとても有意義なものであったということ。資金面の不足により、休学をせざるを得ない状況に陥ったのは正直辛かったし、去年の夏にいざやはり帰れないという現実に突き刺されるとショックでしばらく何もできなかった。だけれど、良い休暇になったと今思えば感じる。今まで8年間、自分は常に走り続けた状態で頑張りすぎた時もあったかなと感じたからだ。特に去年は、過度のストレスやプレッシャーの影響で毎月40度近くの高熱を出し、病院通いだった。


始め、高校生の時にアメリカに留学することが決まった時も両親からは「一年だけ」という条件の下、留学をした。一般家庭、そして5人兄弟のうちの一人に育った私に多額の留学費を出すことなんてどう考えてもできない。


だから、必死に努力した。


誰もが、無理だと言おうと構わず、奇跡が起きることを信じて必死に努力した。アメリカに到着してから一週間、自分の日記に書いてあった。”私はこの高校を絶対に卒業する!”と力強い文字で。


親や友人は、次の年には帰ってくるだろうと想像していたかもしれないが自分の中では、絶対大丈夫だろうという根拠のない自信に満ち溢れていた。もちろんその根拠のない自信とともに、日々の努力はあったし、できる限りのことをした。


大学は、幸運なことにも全額給費(授業料・生活費・食費全てタダ)という待遇を受けられたので、お小遣いを学校のアルバイトや演奏の仕事で稼ぎ、やりくりした。


そして大学院。USCは、アメリカの音大でも有数のトップレベルの学校で私にとっては合格しただけでも大喜び。他にも大学院にはいくつか合格をし、全額給費を出してくれるようなところ、また助手として雇ってくれ、給料をもらいながら通える学校という選択もあった。


だけれど、私はやっぱりUSCに行きたかった。そして、ダニエル・ポラック教授というピアノの巨匠が直々に私の合格通知の電話を入れてくれ、ぜひ来て欲しいと言ってくれたから余計にその気持ちは強かった。


大学の友人や、当時付き合っていたパートナーからは猛反対された。なぜなら合格したのはいいのだけれど、USCから一切の奨学金は出なかったからだ。私は、この学校には合格ラインギリギリでオーディションをパスしたのかもしれない。ここに進学したら、休学、もしくは中退をする羽目になるかもしれない、と。もうそれは行く前から忠告されていた。


USCにいた先輩もいたので、色々と質問もした。1年目に奨学金がでなかったら、2年目に出る可能性はあるのか?と。


その可能性は、ほぼゼロだし、周りにもそういう子は会ったことない、と言われた。


私はその現実を受け入れたくなかった。自分は、絶対に今までなかったことをしてみせる!


そんな思いで、大学院一年の時は何もかもに必死だった。とにかく全ての授業で成績満点を維持し、ピアノの練習も朝晩猛練習し、先生を絶対がっかりさせることのないよう、そして演奏の実技試験では最高の演奏をできるよう、必死に努力した。


常に完璧でいなければいけない、そうしなければ奨学金を得られる可能性を失うかもしれない・・・仮にその可能性が1%以下だったとしてもとにかく挑戦してみたかった。もちろんそれに伴うプレッシャーは半端なく、演奏時は一音でも間違って弾いたら手が汗でじわじわと濡れていくほど。


合格ラインに達するレベルの演奏だったらいいのよ〜。テストだって、落第しない程度の点数だったら卒業できるし〜。と周りでのけのけと言っている同級生もいた。そんな、プレッシャーが特になく学校に通える子達がたまに羨ましくも思えた。


実際全ての授業でオールAをとり、二学期ともGPA4.0の満点。バロック演奏を専門に勉強するクラスでは、テストで120点という満点以上の点数をとり、40年教えてきた中での最高得点だ!と感激していた先生もいた。


また伴奏の仕事でも、声楽、弦楽器の先生、伴奏も常に完璧な状態で弾けるようにしないと、と自分のソロ曲でないのにも関わらずかなり必死に練習した。ちょっとでも伴奏に失敗したり先生の満足いく演奏でなければ、


”はい、君もう来なくていいからね。他にピアニストはいくらでもいるんだから、次を探すよ。”


とあっさりクビになってしまうし、自分の周りの子もそうやって次々とクビになってしまう子がいた。


そしてピアノ科では、試験時に自分のレーティングスコアというものが技術・音楽性によって点数化され、生徒ごとにランクがつけられるのだが、(恐ろしい競争社会・・・)私は合格時は、平均より下にいた(3.5-4.0台)のに、学期の終わりには0.6-0.8まで持ち上げた。


点数は下がれば下がるほどよく、4.00を超えてしまえば不合格レベル、そして1.00が成績でいうAなので、それよりマイナスになればA+の状態、自分の点数は学内ピアノ科のトップ2%の成績まで追いつけることができた。そもそも奨学金を得られる生徒は、点数が最低でも2.00以下でないといけないので、最初に自分が入学した時点ではほと遠い点数だったのだ。



これなら、奇跡が起こるだろう。奨学金が二年目に出ますように・・・!


教授、副校長・・・有難いことにたくさんの方が私に奨学金を与えるよう、学校と粘り強く交渉し、戦ってくれた。学校側も、資金が用意できる状態になった時点で私にあげたいとまで言ってくれた。


だけれど、やっぱり学校に寄付金が入ってくるわけでもなく、(学校への寄付金が非常に少ない年であった)資金が残念ながら用意できないということで私は休学をせざる得ない状況に陥ってしまった。


でも、この一年の休学はとても有意義で私にとって多くのプラスをもたらしてくれた。ピンチの時がチャンス!とよくいうように、今年一年はまさにそんな一年だったと思う。


新しい音楽仲間に日本で知り合うことができ、冬には北海道という初めて訪れる地でのコンサートがあり、自分をPRするためのチラシ、そしてオリジナルCDを出版するまでに至った。おかげさまで数多くの仕事の機会、そして取材の機会をいただき、周りにもだいぶピアニストとして認知されるようになってきた。


休学をしていなかったら、このどれもなかっただろうし、普通に今年の5月に卒業をして、日本でいざ就活をするのか、どうするのかで迷っていたことだろう。


結局最終的に思うことは、どんな物事も現実を受け入れ、それながらもポジティブにとらえること。ポジティブに考えていかなければ、追い詰められるばかりで諦める方向にいってしまったり、後悔の残る選択をしてしまうのではないか、と。


不可能を可能にすることには、相当の努力と覚悟がいる。普通の人がやったことのないことをやろうとすると必ず批判される。人間誰しも好意的に物事を見てくれるわけではない、批判したり、相手を罵ったりして頑張っている人を陥れようという人もでてくる。


どんなに周りから言われようと、思われようと、やっぱりそれは自分の人生なんだもの。自分の行きたいように、思った直感のままに、行きていけばいい。不安とか悩んでいる暇があったら、目標に向かってただただ努力する。ただそれだけのこと。限界というものは、自分の中で勝手に作ってしまうもの、自分の限界は作りたくて作るものでもないが、作った時点で終わりだ。


こうしてゆっくり今年一年日本でバイトしながらも、たくさんの人に出逢い、音楽をし、またアメリカにそろそろ復学できる(まだ資金集め中だが)と思うと胸の鼓動が高鳴る。

1枚目:山梨県北杜市で毎年開催されるフレッシュコンサートでの1枚。

2枚目:北海道でコンサートをする機会のために自分のPRチラシを作成。

3枚目:新千歳教会にて、ファジル・サイのブラックアースを演奏しているところ。

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みさきのLA音楽留学日記

16歳で奨学金を給付され、アメリカに単身音楽留学。インターロッケン、リン音楽院を得て、現在南カリフォルニア大学ソーントン音楽学校にて、ダニエル・ポラック教授のもとピアノ演奏科修士課程在学中。TABIPPO/PAS-POL夏の絶景ポストカード全国LOFT、東急ハンズ、ヴィレッジ・ヴァンガードにて発売中。Getty Imagesフォトグラファー